東京を十日あまり離れていた間に自宅にファックスが入っていた。勝野康友氏がお亡くなりになったという。4月29日、享年69。
勝野さんについて散人が知るところは、東京大学教養学部をご卒業後、住友商事に入社。以後鋼管貿易部のエリートとして大活躍された人ということ。散人が鋼管貿易に入った時には、勝野さんはロンドン支店の鋼管担当責任者として、雲の上とも言えるエライ人だった。何せ非米系メージャー石油会社が買い付ける鋼管類の買い付けを一手に対応する現場の大責任者であったのだ。イラク、イラン、中東、アジア、南米など石油会社のオペレーションの資材購入のほとんどをロンドン支店が(つまり勝野さんが)ハンドルされていた。ものすごく頭がいい人という印象で、実際とてつもなくシャープだった。実績は素晴らしいが、同時に彼に嫌われてしまった人も多くいた。とても怖い人だったのである。
でも、世界の流れは、メージャーオイルの資材集中購買という伝統的な方法とは逆に流れていた。各国の石油資源はどんどん国有化され、資材購買はどんどん現地化して行ったのである。しょせん、メージャーオイルの集中購買に依存するロンドン支店の商権は小さくなる一方。その点、米国でのローカル商売に徹していた米国出先の扱いは安定的だった。結局、勝野さんは、鋼管ビジネスでの花形の地位を米国土着ビジネス担当者に譲ることとなる。グローバリズムがローカリズムに敗れたとも言える。その後ビジネスの第一線を退かれ、本社部門の広報室長となられる。本人としては不本意なことだっただろうと思う。でも、広報室長としての活躍も驚異的な物だった。「広報は営業」。その精神で素晴らしい実績を上げられた。会社のマスコミ注目度も飛躍的に向上した。
広報室長で居られた頃は、調査部にいた小生の隣で執務されていた関係上、いささか近い距離で勝野さんをお見受けした。悠々たるご執務ぶりは実に立派だった。みんなが緊張してしまうワシントンからの大物の来訪にも実に巧みに対応していただき、僕らは面目を施した。
そんなことよりも、散人個人にとってとても印象深いことがある。散人が中南米某所で駐在していた際だがいささか精神的に参っていた時があった。その時、勝野さんが出身元の東京鋼管貿易部の部長として現地に出張してこられた。実にうまく関係者との確執を取りなしてくれた。その後、勝野さんが小生を食事に誘ってくれたが、その時の言葉が今も忘れられない。「人間『気を遣う』ということと『気を配る』ということは違うのだ。君は『気を遣って』いるけれど『気を配っていない』」と言われた。
いまだに小生は「気を遣う」ばかりで「気を配る」のは苦手だ。でも、その二つの違いは理解できるようになったのは、勝野さんのおかげだ。ご冥福をお祈りしたい。
でも、世界の流れは、メージャーオイルの資材集中購買という伝統的な方法とは逆に流れていた。各国の石油資源はどんどん国有化され、資材購買はどんどん現地化して行ったのである。しょせん、メージャーオイルの集中購買に依存するロンドン支店の商権は小さくなる一方。その点、米国でのローカル商売に徹していた米国出先の扱いは安定的だった。結局、勝野さんは、鋼管ビジネスでの花形の地位を米国土着ビジネス担当者に譲ることとなる。グローバリズムがローカリズムに敗れたとも言える。その後ビジネスの第一線を退かれ、本社部門の広報室長となられる。本人としては不本意なことだっただろうと思う。でも、広報室長としての活躍も驚異的な物だった。「広報は営業」。その精神で素晴らしい実績を上げられた。会社のマスコミ注目度も飛躍的に向上した。
広報室長で居られた頃は、調査部にいた小生の隣で執務されていた関係上、いささか近い距離で勝野さんをお見受けした。悠々たるご執務ぶりは実に立派だった。みんなが緊張してしまうワシントンからの大物の来訪にも実に巧みに対応していただき、僕らは面目を施した。
そんなことよりも、散人個人にとってとても印象深いことがある。散人が中南米某所で駐在していた際だがいささか精神的に参っていた時があった。その時、勝野さんが出身元の東京鋼管貿易部の部長として現地に出張してこられた。実にうまく関係者との確執を取りなしてくれた。その後、勝野さんが小生を食事に誘ってくれたが、その時の言葉が今も忘れられない。「人間『気を遣う』ということと『気を配る』ということは違うのだ。君は『気を遣って』いるけれど『気を配っていない』」と言われた。
いまだに小生は「気を遣う」ばかりで「気を配る」のは苦手だ。でも、その二つの違いは理解できるようになったのは、勝野さんのおかげだ。ご冥福をお祈りしたい。
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